2022-08-27 No.978
どうも、北海道十勝のハンター モーリーです。
今回は元アニメーターとしてあるアニメーターについてしたためます。
北海道の自然がテーマではありませんが良ければお付き合いください。
2022年8月26日、金曜ロードショーで「耳をすませば」というアニメ映画が放送されました。
「耳をすませば」とは柊あおいさん原作のリボンで連載(1989年)された全一巻の漫画作品です。
参考サイト:
スキマ 耳をすませば
この漫画を休暇中の宮崎駿さんがふと目にして庵野秀明(エヴァンゲリオン監督等)さんと押井守(うる星やつらビューティフルドリーマー監督等)さんという世界を代表するアニメ監督たちを休暇中の別荘に呼び、やんややんやしながら映画のベースを作ったと聞いています。
そして、宮崎駿さんが脚本/プロデューサーとなり、近藤喜文さんが監督として作り上げたのがスタジオジブリ作品「耳をすませば」(1995年)です。
今回はジブリ作品の「耳をすませば」の監督、故近藤喜文さんについて記事をしたためたいと思います。
このブログのテーマからは外れますが、この記事の目的は近藤喜文さんについて一人でも多くの方に知ってもらうためです。
多くの方は宮崎駿や高畑勲という名前は聞いたことがあるかもしれませんが、近藤喜文という名前は聞いたことがないと思います。
スタジオジブリで「耳をすませば」監督の次に「もののけ姫」の作画監督もされていた方です。
これを記す私はアニメーターとして運よくもジブリの作品にも参加させていただいたことはあります。
しかし、私が業界に入ったのは1999年。
近藤喜文さんが亡くなられたのは1997年、享年47歳でした。
「千と千尋の神隠し」の時は猫の手も借りたい状況だったらしく、ディズニーの仕事を受けていた関係※でジブリからのお仕事を受けることになりました。
※ディズニーとジブリは仲が良いため、アニメーターを融通する関係があったらしい
もし、近藤喜文さんが当時ご存命でしたら、ひょっとしたら千と千尋の神隠し(2001年)で同じ作品に参加させていただけていたかもしれません。
ジブリからの仕事を受けることが決まった時は近藤喜文さんのことが頭をよぎった記憶があります。
25年越しではありますが、改めて近藤喜文さんのご冥福をお祈り申し上げます。
近藤喜文さん 略年譜
近藤喜文さんのイラストです。1996年頃のアニメージュというアニメ雑誌に掲載されていた近藤喜文さんのイラストのスクラップです。
この絵を見てから、近藤喜文さんのファンになりました。
このような日常のふとした光景を品と優しさのある感じで描く方です。
アニメーターとしての近藤喜文さんについては、私ごときがなにか言える方ではありません。
余人をもって代えがたい、そういう方だったと思います。
略年譜
以下に近藤喜文さんの略年譜。
1950年3月31日 新潟県五泉市に生まれる
1968年3月 新潟県立村松高校卒業
1968年4月 東京のデザイン学校で大塚康夫氏の講義を受ける
1968年10月 大塚康夫氏を頼りシンエイ動画(旧Aプロダクション)に入社
1969年 シンエイ動画にて巨人の星、ルパン三世、ど根性ガエル、はじめ人間ギャートルズ、ガンバの冒険、元祖天才バカボンなどを手掛ける
1978年 宮崎駿氏が演出を務める未来少年コナンで原画を手伝う ここで高畑勲氏に実力を認められる
1978年 シンエイ動画を退社し、日本アニメーション入社
1979年 高畑勲監督の下で「赤毛のアン」のキャラクターデザイン・作画監督を務める この頃すでに肺や呼吸器官を痛めていた
1980年 日本アニメーションを退社し、テレコム・アニメーション・フィルムへ移籍
1982年 リトル・ニモ(日米合作の長編アニメ映画)を宮崎等と主力として参加
1985年 リトル・ニモは最後まで踏ん張るも瓦解しテレコム・アニメーションを退社のち入院
1986年 日本アニメーションに入社「愛少女ポリアンナ物語」(原画)「愛の若草物語」(キャラクターデザイン・原画)
1987年 日本アニメーションを退社しジブリに机を置く
1988年 「火垂るの墓」(キャラクターデザイン・作画監督)
1989年 ジブリに入社「魔女の宅急便」(原画)
1991年 「おもひでぽろぽろ」(キャラクターデザイン・作画監督)
1992年 「紅の豚」(原画)
1993年 「海がきこえる」(原画)
1994年 「平成狸合戦ぽんぽこ」(作画)
1995年 「耳をすませば」(監督)
1997年 「もののけ姫」(作画監督)
1998年1月21日4時25分 解離性大動脈瘤のため永眠
1998年 「ふと振り返ると」(画文集)(下画像中央)が徳間書店より発行
2000年 「近藤喜文の仕事」(原画集)(下画像の左)が安藤雅司氏およびスタジオジブリから発行
作画
以下に近藤喜文さんの作画についてザッと紹介します。
貴方はアニメーターは全員絵が上手いと思うかもしれません。
きっとそうなのだと思います。
それでも、数多くいるアニメーターの中でも本当に上手い方は一握りです。
近藤喜文さんはそんな一握りの上手いアニメーターの中にあってさえ、別格の方でした。
近藤喜文さんのなにが凄いのか?
例えばですが。
歩く動作一つとっても、
会社に行く前にめんどくさそうに歩いたり
初デートの前に緊張して待ち合わせ場所へ歩いたり
猟場で猟銃を持ちながらエゾシカやヒグマの気配を探しながら歩いたり
歩くという一つの動作でも多様な歩き方があります。
近藤喜文さんはそういう演技を作画上で表現できる方でした。
セーラームーンの決めポーズやジョジョ立ちのポーズをそれっぽくかける人は多いですが、日常のありふれた動作を違和感なく作画できる方は稀です。
そういう日常の演技が近藤喜文さんは優れていたのかなと感じています。
未来少年コナン
1978年、未来少年コナンの作画に参加したことで宮崎駿氏や高畑勲氏といったたちにその実力を認められるようになった。その流れで翌1979年に赤毛のアンで高畑勲監督の下、キャラクターデザインと作画監督を担う。
(近藤喜文の仕事P14)
赤毛のアン
特に作中で成長する赤毛のアンの子供から女性へと変化するキャラデザは秀逸だったと思います。それほど可愛くはないが利発そうで魅力的な赤毛のアンを仕上げたのは近藤喜文さん。
マリラやマシュー・カスバートのデザインも秀逸です。
のちの世界名作劇場「愛の若草物語」も近藤喜文さんがキャラクターデザインでした。
火垂るの墓
高畑勲氏は作画監督の近藤喜文さんに「火垂るの墓」「おもひでぽろぽろ」において難題を課します。それは「日本人をちゃんと描こう」ということです。
この難題は日本中のアニメーターの中で近藤喜文だけが辛うじて達成できるかもしれない難題であったと高畑氏は語ります。
理想主義的なキャラクターではなく、漫画やアニメ様式のキャラクターでもなく、紛れもない日本人をアニメで表現しようという難題。
劇画的や侮蔑的な誇張による表現ではなく、かつアニメーションとしてユーモアも成立する上で日本人をスクリーンの上で表現すること。
そんな難題を高畑勲氏は近藤喜文さんに課しました。
(近藤喜文の仕事P174)
「火垂るの墓」や「おもひでぽろぽろ」を改めて観てみてください。
近藤喜文さんはこの難題に対してしっかりと回答しています。
高畑さんが求めた回答を近藤喜文さんがしっかりと返答したのだと、私は感じます。
耳をすませば
近藤喜文さんは「耳をすませば」で初監督となります。しかし、宮崎駿氏が脚本(絵コンテを描く人)を担当し、ふたを開けてみると実際は宮崎駿氏の監督作品でした。
実際に宮崎駿氏は「『耳をすませば』で彼(近藤)はアニメーターとして監督をしたということになるんじゃないかと思います。」と語っています。
なにを言っているかというと、近藤喜文さんは原作漫画の「耳をすませば」をそのまま映画にすれば良いと考え、宮崎駿氏は原作を映画用に再構築する必要があると主張していました。
演出の部分で、宮崎・近藤両氏は相当反目もありつつ「耳をすませば」を制作していったと聞き伝えられています。
憧れであり偉大な先輩の宮崎駿、そして自身の作家性、そのアンビバレンツに苦しみながら生まれたのが「耳をすませば」なのかなと感じています。
個人的に「耳をすませば」はジブリ作品の中でも「ラピュタ」「トトロ」等に並び好きな作品です。
冒頭の東京の遠景からファミリーマートにいる月島雫が登場する一連の流れとカントリーロードが引き込まれます。
バロンがでてくる時の背景も素晴らしいファンタジー背景でした。
お父さん声優の立花隆の本もかなり読んでいたので、なぜ素人の立花隆が!!!???って感じでした。
人となり
近藤喜文さんが描いたイラストをみたら、優しい品のある方だと伝わってきます。
後進の指導にも積極的で米林宏昌(思い出のマーニー監督)は近藤喜文さんが週に一回は作画勉強会があったこと、いつも紅茶を淹れてくれたことなどを自身のTwitterでコメントしています。
1980年「トム・ソーヤの冒険」では制作チームを立ち上げてチーム内の指導にも力を入れていました。
ただ、一定以上のところになると人を踏み入らせないところがあり、リーダーシップ発揮して「みんなでやってやろうぜー」というタイプでもなく、多くは語らずに背中を丸めて黙々と作画するタイプで、演出家ではなく根っからのアニメーター、とは故大塚康夫氏は語る。(近藤喜文の仕事P11)
心の中では健やかで、温かく、優しくありたいと思っていたが、自分の心を言葉で言うのが不器用だった。反面、お酒を飲むと正反対の事を言い過ぎる傾向があり、ややこしい、こんがらがった自意識を抱えていた、とは宮崎駿氏が語っています。(近藤喜文の仕事P174)
好きな作家としてはノーマン・ロックウェル、林明子、鏑木清方、高野文子、鳥山明などがある。
近藤喜文さんについて知りたい方は上記画像にある「近藤喜文の仕事」の購入をオススメします。
近藤喜文さんの作画やその人となりについて周辺の方々のインタビューなどが掲載されています。
私は運よく初回の2000年に3800円(税別)で購入できました。
レアな本なので高額になっていますが、おすすめできます。
宮崎駿・高畑勲という太陽の下で
アニメ界の太陽 宮崎と高畑
宮崎駿氏と高畑勲氏はアニメ界における太陽のような存在です。
太陽はすべての生物にとって必要不可欠な存在ではありますが、直視すると目がつぶれ、真夏になると暑くなり場所によっては熱中症で死に至る方もいます。
近藤喜文さんもこの二つの太陽の直射日光を浴び続けたことにより、死期を早めたのかなと思っています。
享年47歳。
近藤喜文ファンとしては宮崎駿氏や高畑勲氏とは距離を置いて欲しかったと思います。
宮崎・高畑両氏は近藤喜文さんの命を吸って作品に反映させていたと感じるからです。
そう思う一方で「火垂るの墓」や「耳をすませば」、「もののけ姫」のような極上の作品は高畑勲氏と近藤喜文さん、宮崎駿氏と近藤喜文さんが組み合わないと成り立ち得なかった作品であるとも思い、やはり一緒にやっていただいたことで凄い作品が世にでたとも思えます。
そして、近藤喜文さんの極限の能力を引っ張り出したのも宮崎・高畑両氏がいたからだとも実感します。
真摯に作品を作る、真摯に仕事をするという事は本当に恐ろしいことだと感じます。
宮崎駿氏も高畑勲氏も己の作家性に真摯であるが故に、アニメーターたちへの要求も酷にならざるを得ないのだと思います。
彼らはポンコツアニメーターには酷な要求はしません。
要求しても無駄ですから。
故に極上アニメーターの近藤喜文さんへの要求がきつくなってしまったのでしょう。
そして、近藤喜文さんは生命力をすり減らしていったのでしょう。
「たかが絵を書くだけで命がすり減るかよ」と思うでしょうが、アニメの作画というのは恐ろしく過酷な作業なのです。
スケジュールは大変だし、周りはみんな上手いし、先輩は怖くて上手いし、後輩は生意気で上手いし、自分はいくら描いても上手くならないし、給料はそれはそれは低いし、まぁそれはそれは大変な作業なのです。
楽しい瞬間なんて、うまい人の絵を生で見られるとか、よい動画ができてパラパラめくっているとキャラが生き生きと動いていて感動したり、スタジオで飲みにってアニメ談義に花が咲いたり、そんなものです。それがなによりも最高の瞬間だったりするのですが。
話は近藤喜文さんに戻りまして。
近藤喜文さんは昔からそれほど健康ではない方でしたので、長年の過酷な作画作業が徐々に心身ともに蝕んでいったのかなと思います。
そんな方がアニメ界の神とも鬼ともいえる宮崎・高畑両氏にその才能を見出され、己の能力を最大限に発揮した。
早世とはいえ、苦しいことがほとんどだったとはいえ、ひょっとしたら幸せだったのかもしれないと、記事を書いていてそう感じました。
至上の作品には正義も悪もなく、ただ己の作品に真摯であることの酷薄さと美しさだけがあるのかもしれません。
人の命を吸い続ける険しい山のような、それでも挑みたくなる。
近藤喜文さんにとって宮崎・高畑両氏と仕事をするということは厳しい山への挑戦のようなものだったのでしょうか。
片渕須直
片渕須直氏という方がいます。
「この世界の片隅に」(原作 こうの史代)というアニメーション映画の監督です。
片渕氏も元ジブリに所属しており、元々は「魔女の宅急便」(1989年)の監督でした。
しかし、色々な経緯があり監督の座を宮崎駿氏に譲り、ジブリを去ります。
そんな過去がありましたが、片渕氏は長き業界遍歴を経て2016年に「この世界の片隅に」を発表し、多くの賞を受賞し評価を得ます。
今はアニメ制作会社コントレールの取締役として次回作「清少納言」を鋭意制作中で、続々と優秀なアニメーターたちが彼の下に集まってきています。
関連記事:
この世界の片隅に 原作とアニメ映画と3つの才能の融合 そして2016年の奇跡
近藤喜文さんもジブリから離れて、自分の思い描く作品を立ち上げてみて欲しかった、そう思います。
ひょっとしたら、片渕監督とタッグを組んで作り上げる作品もあったかもしれません。
守破離
守破離という言葉があります。
茶道や武道における師弟関係のあり方とプロセスを示している言葉です。
元々は千利休の言葉「作法を守り尽くして、破るとも、離るるとても、本を忘るな」から来ていると言われています。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。
「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。
近藤喜文さんには「破」、特に「離」を実践して頂きたかった、そう思っています。
宮崎・高畑両氏を「破」壊して、「離」ジブリから離れる。
そんな選択肢もあったのかもしれません。
守破離、アニメーターに限らず、会社員などあらゆる組織で必要な姿勢かもしれません。
これを読んでくださる貴方も「守」ばかりで所属する組織や会社に憤りを感じた時は、「破」と「離」という選択があることを知って下さい。
いつまでも「守」守ってばかりでは変化や成長はありえません。
私はアニメーターから離れ、今は猟師です。
そんな選択肢だってあるのです。
以上、長くなりましたが金曜ロードショー「耳をすませば」放送に際して、同作品監督の近藤喜文さんについて記してみました。
近藤喜文、そんなアニメーターがいたことを一人でも多くの方に知っていただければ幸いです。
また、この記事に出てきている高畑勲氏も大塚康夫氏もすでに他界しております。
高畑勲氏は20218年4月5日(享年82歳)
大塚康夫先生は2021年3月15日(享年89歳)
諸先生たちのご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
素敵な作品をありがとうございます。
したっけぃ